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ミウラとヒト

*番外編* 選手経験のない異端の指揮官  ~愛媛オレンジバイキングス・保田尭之ヘッドコーチ~

お待たせしました!
愛媛のスポーツマガジンE-dgeのライターさんによる、 スポーツのウラシリーズ第3弾をお届けします。
ミウラは、創業地松山のプロスポーツチームを微力ながら応援しています。プロバスケットボールB2チームの愛媛オレンジバイキングスもそのひとつ。
普段は記事にならないかもしれないウラの話、どうぞお楽しみください。

登場人物紹介

やすだ たかゆき
保田 尭之

YASUDA Takayuki

愛媛オレンジバイキングスヘッドコーチ 

プロフィール

1989年7月15日、大阪府生まれ。大学時代にスペインでバスケを学び、大学卒業後の2013年NBLリーグに所属していた和歌山トライアンズのアシスタントコーチに就任。16年、26歳の若さでB2熊本ヴォルターズのヘッドコーチとなり、2季連続でチームをプレーオフに導く。B1滋賀レイクスなどを経て、23年から愛媛オレンジバイキングスのGM兼ベッドコーチを務める。  

Profile Picture

まつもと たかし
松本 隆志

MATSUMOTO Takashi

愛媛のスポーツマガジンE-dgeライター 

プロフィール

愛媛県松山市出身。出版社勤務を経て2007年にフリーの編集者へ転身。2009年より愛媛FCを中心としたプロサッカークラブの取材活動を始める。サッカー専門紙エルゴラッソ、サッカーダイジェスト等へ寄稿。ライター業とともにフォトグラファーとしても活動する。 

Profile Picture

ミウラも応援するプロバスケットボールB2に所属する愛媛オレンジバイキングス。その試合中、コートの傍らで小柄な男が身振り手振りを交えた大きなアクションで躍動している。男の名は保田尭之。2023-24シーズンから指揮を執るヘッドコーチだ。 
2m超えの大男たちがしのぎを削る舞台において、172cmの保田はひと際小柄に映る。しかし、その存在感は決して身長に比例しない。保田の年齢は34歳。現在でもBリーグ指揮官としては極めて若い部類に入るが、保田が初めてBリーグのヘッドコーチに就任したのはなんと26歳の時。異例のスピード出世を遂げた若きリーダー誕生の裏には、プロバスケ界の常識から見れば、あまりに特異なプロセスがあった。 

ないに等しい選手キャリア

大きな身振り手振りを交えてチームを指揮する保田 

スピード出世と聞けば“エリート”を想像するが、保田は決してその部類には入らない。むしろ、雑草中の雑草と言っていい。というのも保田のバスケットボール選手としてキャリアは、プロ目線で見れば“ない”に等しいものだからだ。 

中学、高校の6年間はバスケ部に所属して情熱を注いだが、強豪校でないにもかかわらず、レギュラーを勝ち得ることはできなかった。 

「中学の時はキャプテンを務めていたけどスタメンでもない。高校になると、そもそもポジションがなかった。もう“応援”です。僕は応援団長として、練習が終わったら後輩らを引き連れて片付けをするリーダーみたいな感じでした」 

そもそも目立った選手キャリアを持たないままプロバスケチームのヘッドコーチになるケースはあるのだろうか? 保田は「他のスポーツに比べれば多くなってきている」と言うが、当然のことながら華々しい選手キャリアの後に指導者をめざすのとは、ハードルの高さが異なる。 

「(若くしてプロの現場で指導実績を得るには)海外経験が付随してこないと難しい。日本でそれを叶えるとしても有名大学の大学院でコーチングに関わることを学んで修士を持つなど、よりスペシャルなキャリアが必要だった」 

 そんな状況の中、保田が1年の浪人を経て外国語大学へ進んだ末に見いだした活路は、「エリートたちと勝負しない」という独特のアプローチだった。 

「当時はアメリカの大学に4年間通い、NCAA(全米大学体育協会)で経験を積む日本のバスケエリートがたくさんいて、その選りすぐりが日本のプロリーグに入ってきていた。彼らと争った場合、僕レベルだと完全に埋もれて終わってしまう。なので、僕はレベル的にアメリカの1個下にあるスペイン語圏内の国を狙ったんです。当時はスペイン、アルゼンチンがFIBAランキングで2位、3位だったので、こっちに活路を見いだそうと」 

転機となったスペイン留学 

スペインに活路を求め、必死に学んだからこそ現在のポジションを得た

突き進む道が決まれば行動は早く、しかも大胆だった。保田は履歴書とともに自分がやれること、学びたいことを記したレターを、なんとスペインのプロバスケクラブ全50チームに送付。仰天の行動ではあったが、2通の返事が届いた。 

「最初に返ってきたのが2部リーグに所属するスペインのメノルカ島という小さい島にあるチーム。そこへ1カ月間、バイトで貯めたお金でホテル住まいしながら学びに行ったんです。いろいろ自分で交渉して、安く泊まれるところを紹介してもらったり、食事も1日2パックの惣菜をもらえる店を教えてもらったり。そして、現場ではユースチームからトップチームまで全部見せてもらった」 

チームから任せられたのは主に雑用だったが、異国の地で目の当たりにするプロの現場の光景は全てが新鮮だった。これに強い刺激を受けると、その半年後には大学の留学制度を利用して再びスペインへ。今度は1年間、腰を据えて学ぶ覚悟で海を渡った。 

「留学したのはサラマンカ大学。その大学がある街には女子のユーロリーグで優勝したことのあるチームがあった。そのチームに以前メノルカに行った時と同じようにレターを送って帯同させてもらおうとした。でも全然返事が来なかったので、試合に行き、チケット売り場で『これをコーチに渡して欲しい』と封筒を預けたけど、それでも返事は返って来なかった。次は直接電話をしたけど、これもだめでした。ただ、実は僕、コーチ講習は日本よりも先にスペインで受けていたんだけど、その時の講師の一人がたまたまそのチームの幹部で、その方と直接話をすることができて、ようやくハーフシーズン、そのチームに帯同することができた」 

まさに行動力の“おばけ”。くじけることを知らない猪突猛進の姿勢が報われると、チームも前のめりに情熱を傾ける日本人の思いに応えた。 

「そのチームでの僕の役割は練習の動画を撮ること。僕はアシスタントコーチのお手伝いをするという前提で何か課題をもらおうとお願いしたら、3本くらい試合の動画を渡され、『試合のスカウティングをして来い』と宿題を出してもらえた。見よう見まねで動画を編集して提出すると、そこから手取り足取りアドバイスをもらえるようになった」 

スペイン留学と時を同じくして、JBA(日本バスケットボール協会)の指針にも変化が訪れていた。 

「僕がスペインに行った直後くらいにJBAの指針もスペインを一つのモデルにしようというところがあり、自分が学んできたことと合致してきた。その流れは僕のキャリアの後押しにもなった」 

エリートとの勝負を避けてスペインを選んだことで、保田は結果的に新たな潮流の先頭に立っていた。 

プロの指導者として順調なスタート 

2人の優秀な指導者と出会えたことが幸運だったと振り返る 

数年前まで何者でもなかった若者は、大学卒業後にプロリーグNBLに所属する和歌山トライアンズのアシスタントコーチに就任。いきなりプロの指導者としての道が開けると、自身の可能性を広げてくれる優れた指導者との出会いにも恵まれた。 

ジェリコ・パブリセヴィッチという元日本代表ヘッドコーチが僕を(アシスタントコーチとして)取ってくれたんです。彼はクロアチア人だけど、スペインでの経験もあり、リーグで唯一のヨーロッパ人コーチ。ジェリコも『ヨーロッパを知っている日本人は君しかいない』と言ってくれ、彼も20代からコーチをし始めていたことから『若い頃の自分を見ているようだ』と共感してくれた」 

熊本ヴォルターズへ移籍した翌年にも日本代表ヘッドコーチ経験のある清水良規氏をサポートするアシスタントコーチを2年間務めた。幸運にも立て続けに巡り合えた名将のもとでの経験はかけがえの無い出来事となった。 

「ジェリコはNBAに次ぐレベルと言われているユーロリーグでチームを2回優勝に導いているすごい人。そこで僕はプロフェッショナルな姿勢を叩き込まれた。清水さんにはプロのコーチとしてオンコートで初めて仕事を与えてもらえた。スカウティングも任せてもらい、選手たちに直接アプローチするチャンスも頂けた。25歳の若さでトップレベルのコーチが求めることを理解させてもらえたことは幸運だった」 

被災地・熊本での奮闘 

自分の熱意を伝え、チームを鼓舞する 

2016年4月、所属する熊本ヴォルターズのホームタウンを襲った熊本地震。チームは前年度のシーズン途中で活動中止を強いられただけでなく、県全体に甚大な被害をもたらした影響は新シーズンに向けての資金面、環境面にも大きな影を落とし、クラブは存続の危機に陥っていた。 

そんな状況下で受けたヘッドコーチ就任のオファーに保田は大いに頭を悩ませた。 

26歳でプロのヘッドコーチなんて聞いたこともなかったし、僕はそこまで順調な3年間を経験させてもらっていた。そのままコーチとしてのキャリアを積み上げていけば王道を歩むことができると思っていたので、オファーは何度もお断りしていた。ジェリコからも『10年間は我慢してアシスタントコーチを続けろ。じゃないとお前のキャリアは不安定なものになるぞ』と言ってくれていた」 

その反面、被災から力強く立ち上がろうとする地域の人たちに勇気づけられる部分もあった。 

「当時、僕は1カ月間避難所に住んでいた。そこで懸命に頑張る地域の人たちのいろんな声を聞く中、クラブのGMから『地域にコミットして欲しい。そして、復興のシンボルになってもらいたい』という言葉をもらい、オファーを受ける覚悟を決めた。こういう状況で地域にコミットできる機会はもうない。自分のキャリアのことは一旦置いて、地域のために頑張ろうと」 

史上最年少ヘッドコーチのもとに集った選手たちはほとんどが自分より年上という特殊な状況だったが、常に前向きに行動を起こし続けてきた男はここでも強さを見せた。 

「もちろん難しさはあったけど、この仕事で簡単なことはない。コミュニケーションの取り方は十人十色コミュニケーションを取ることは得意だし、そこが僕の一番の強みだとも思っている。もともと僕はそのチームでアシスタントコーチ。そもそも名コーチのような振る舞いで指導することは僕には求められていないわけだし」 

チームは文字どおり復興のシンボルになるべく攻撃的なスタイルで白星を積み重ね、B2リーグ西地区の強豪として君臨した。コンスタントに好結果を残し続け、ヘッドコーチ就任3年目には見事に地区優勝を達成。悲願のB1昇格にこそあと一歩のところで届かなかったが、選手キャリアのバックボーンがないに等しかった雑草指揮官は、プロの舞台で十分に戦える能力を証明して見せた。 

新天地・愛媛でのチャレンジ  

来季の続投が発表され、会見で意気込みを語る保田

その後はかつての師の言葉を守るように佐賀バルーナーズ、滋賀レイクスで再びアシスタントコーチとして地固め。プロの指導者としてのキャリアを10年積み上げると、ここからが本番とばかりに決めた新天地が愛媛オレンジバイキングスだった。今度はヘッドコーチの大役に加え、GMも兼務するチャレンジを引き受けたのだ。 

経験値の浅い若手らを積極的に招き入れた就任1年目の昨季はシーズン序盤から苦戦が続いたが、チームのフィロソフィー(哲学)作りに主眼を置き、それが浸透し始めると戦績も徐々に回復。苦しみながらもB2のステージに踏みとどまった。シーズン終了後には来季の続投も発表された。 

小柄な体もコートの傍らでは大きく見える。試合中は「選手と一緒に戦っている姿勢を見せること」を心がけ、派手な身振り手振りを交えた、熱量の伝わる指揮で周囲の目を惹きつける。 

選手が走っている時は僕も走るし、ディフェンスを頑張っている時は僕も気持ちが入り込んでいる姿を見せたい。選手たちに見透かされるような態度は絶対に見せられない」 

バスケ界の常識では考えられないプロセスを経ながらヘッドコーチとなった保田だが、そのポジションは決して偶然手に入れたものではない群を抜く能動的な行動力がもたらした必然というべきで、前向きなパーソナリティが引き寄せたものに違いない。 

自らが信じた道をひたすら突き進み、プロの舞台へたどり着いたパイオニア。才能や環境は考え方、行動で大きく変わる目標に辿り着く道は一本だけではない。保田は自身のキャリアをもってそれを力強く証明している。  

あとがき 

愛媛オレンジバイキングスを率いる保田ヘッドコーチ。今のポジションに就くまでには、驚くほどの行動力と、常に前向きで強い信念がありました。企業としても一個人としても学ばせていただくものがたくさん感じられます。
今やバスケットボールは大人気のスポーツですが、こんな素敵なお話を聞くと、また違った視点で楽しめそうですね。実際、試合中に見られる保田ヘッドコーチの大きな身振り手振りは、無意識に目を奪われる瞬間がありますよ。

ミウラは、これからも愛媛オレンジバイキングスさんを応援してまいります。

今後もプロスポーツチーム編だけでなく、いろんな番外編の企画を予定しております。楽しみにお待ちください!!

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